犬嫌いと思っていた母は、実は大の犬好きだった。
そんな家庭にやってきた一匹のシーズー。
「アレックス」と名づけられたその犬を囲んだ幸せな日々が、ある日突然壊れることになった。
大災害を通じた、犬と家族の心の繋がりを描いた作品。
ママは犬が大好きだって、教えてくれたのはお祖母ちゃんだった。ママはパパと結婚する前にも犬を飼っていたんだって、ママはすごくその犬が好きだったんだって。
でも私が知っているママは、犬が飼いたいなんて一度も話したことがなかった。私は犬が欲しかったのに、ママがダメだって言うから、一度も犬を飼ったことがなかった。
小さい頃は私とママはすごく仲良しだった。いつでも一緒で、なんでもお喋りしたから、学校であったことはママは何でも知っていた。でも、大きくなると、友達と秘密の話が増えてママと前ほど仲良しじゃなくなった。だって、好きな男の子の話なんて、ママとはできない・・・ママ、ちょっと寂しそうだった。
お祖母ちゃんが電話をくれたのは、私の十二歳の誕生日が近くなった日だった。
「カナ、犬ほしないか?」
いつもは手縫いの洋服や本を買ってくれるお祖母ちゃんが、なぜか今年は「犬が欲しくないか」と聞いてきた。
「欲しい!!犬飼いたい!!」
お祖母ちゃんは犬をくれるって言ったから、ママにすぐに話した。ママはびっくりして、すぐに電話を変わった。近所にいとこ達と住んでいるお祖母ちゃんは、めったに電話なんてしてこない、ママとお祖母ちゃんは電話で真剣に話し合って、パパがいいって言ったら飼ってもいいって言った。きっとパパは何も言わない、だから家で犬を飼うことになった。
電話を切ってからずっとニコニコしてた。ずっとママはニコニコしてて、すごく嬉しそうだった。後からお祖母ちゃんが、ママは犬が大好きだって教えてくれた。そして、生まれたばっかりの子犬の写真を持ってきた。
近づきすぎてピンボケで、犬の顔はよく分からなかったけれど、六匹兄弟で、二匹がメスだって教えてくれた。妹と一緒に写真を見たけれど、母犬の近くに丸い毛玉が六つ並んだ写真か、ピンボケの写真しかなかった。
「ネズミじゃないの!!」
ママは嫌そうな声を出した。ママは犬は好きだけれど、ネズミは大嫌いだった。生まれたばっかりの子犬は、目も開いてなくて毛が短くて、ネズミみたいだった。でも母犬はちゃんと犬の形をしていた。毛が長くて、目が青く光っていて、テレビのコマーシャルで見る犬みたいだった。
「シーズーって言う種類なんだって」
雑誌モデルみたいに毛が長くて、きれいな犬だってママが言ってた。大きくなっても小さいから、ずっと抱っこできるんだって、だからずっと可愛いんだって。
ママ、写真を見ながら嫌だって言ったけれど笑ってた。
写真を見て、背中の模様しか見えなかったけれど、真ん中の茶色い毛の犬がいいねって話してた。お祖母ちゃんがメスはもう貰い手がいるから、オスしかいないってちょっと困った顔をした。
「男の子の方がいいわよ」
家は私と妹だけだから、ママは犬くらいはオスがいいって。
名前はママが付けた。アレックスって言うの。ママが格好良い名前だからって、アレックスって決めた。
本当はパパが、自分と同じ名前にするって言ったけれど、そんなの変だからって多数決で決めた。だって、アレックスのほうが格好良いもん。でも写真のアレックスは小さくて、全然強そうじゃなかったけれど、それでも男の子だから格好良い方がいいに決まってる、って思った。
アレックスのママ犬の飼い主さんは、もうちょっと大きくなったらアレックスを見に来ても良いよって、言ってくれたんだって。まだ小さい赤ちゃんで、バイキンをやっつける力がないから、あんまりたくさんの人が見に行ったら疲れちゃうし、バイキンが入って病気になるからだってママが言ってた。だから、家族みんなでアレックスに逢える日を楽しみにして待つことにした。ママ犬の飼い主さんに名前はアックスにするって言ったら、良い名前だって言ってくれたってママが言うので、ちょっぴり自慢だった。
ママと妹は、私がお絵かき教室に行ってる間に、アレックスを見に行ったんだって。写真をもらった時よりも大きくなっていて、ちゃんと犬の形になってたって。まだ目が開いたばっかりで、ちゃんと歩けなくて、めちゃくちゃ可愛かったんだって。
みんなでママ犬のおっぱいを飲んで、お昼寝して、フワフワやってんて。
アレックスが家に来るのは、私も妹もみんながいる日で、おっぱいを飲まなくなってからなんだって決まった。もうちょっとしたら、アレックスはまた大きくなって、家に来ても一匹で暮らしても大丈夫なんだって。まだ赤ちゃんだけれど、それでももうママ犬や兄弟と離れても大丈夫だって、ママがママ犬の飼い主さんから聞いてきた。
ママも妹も私もすごく楽しみで、アレックスが来る日のために、いっぱい用意をした。ママが朝、ゴミを捨てに行ったら、ゴミ捨て場に大きなカゴが捨ててあったんやって。ママがそれを拾ってきた。
「アレックスのベッドにしたら可愛いでしょ?」
新聞紙や小さい頃の人形の布団やら敷いて、アレックスのベッドを作った。大きなカゴに寝たら、きっとお人形みたいで可愛いって、ママが言ってた。
それから一週間して、アレックスをもらってくる日が来た。前にピアノの発表会でもらった花束が入っていたカゴに入れて、アレックスを連れて帰ってくることにした。まだ小さい赤ちゃんだから、歩いて帰って来られないって、ママ犬の飼い主さんが言っていたから。
ママと妹と私で、歩いてママ犬の飼い主さんの家に行った。私は初めて行ったけれど、細長い家の三階のリビングの端っこにあるダンボールの中に、いっぱい子犬がいた。クンクン鳴きながらヨチヨチ歩いて、重なったり離れたり、ピンク色の舌をペロペロ出していて、まだ真っ直ぐ歩けなかった。
「この子がアレックスよ」
ママ犬の飼い主さんが、背中の模様が一番濃い子を抱っこして見せてくれた。アレックスは眠たそうな顔をして、手足を一生懸命にバタバタさせて、ママ犬のほうに行こうとしていた。手足は靴下を履いたみたいに真っ白で、尻尾の先っぽも真っ白、顔は黒とこげ茶色の毛がいっぱいで、背中は茶色、手足の肉球はピンク色で、何だかフニャフニャ鳴いていた。床に降ろされるとママ犬のほうにヨチヨチと走っていって、おっぱいを飲もうとしてお腹の下に顔を突っ込んでた。ママ犬はちょっと怒って唸った。
「ラブ、もう最後だから吸わせてあげて」
ママ犬の飼い主さんが言ったら、ママ犬が大人しくなったから、アレックスはママ犬のおっぱいを飲んだ。他の兄弟はもうおっぱいばっかり飲まないのに。アレックスはずっと最後までおっぱいを飲む子なんだって。
ママ犬の飼い主さんが離乳食をくれた。後二週間もしたら、アレックスは子犬用のドッグフードを食べていいんだって言って、抱っこさせてくれた。フワフワで温かくて、ピンクの舌で私の手を舐めた。
「家族みんなで、可愛がります」
そう言ってママが頭を下げた。
アレックスは思ったよりもずっと大きくなっていて、せっかく持って来た、花束のカゴには入らなかった。もうヨチヨチと歩くし、尻尾も振るし、カゴからはみ出したら危ないから、家まで私が抱っこして帰ることにした。道路を歩いたことがないから、紐をつけてもちゃんと歩いて帰らないんだって。道路にアレックスが落ちないように抱っこしたけれど、アレックスはあったかくて、五月なのに腕に汗をかきそうで、フワフワの毛がくすぐったかった。
大きな道路に来ると、それまで大人しかったアレックスがクンクンと鳴いて、私の腕の中から出て行こうとして暴れた。アレックスを落とさないように抱っこしなおしたけれど、アレックスは全然言うことを聞かなくて、ママ犬のところに帰ろうとした。
「きっと車の音が怖いのよ」
道路には右に左に、たくさんの車が走っていて、トラックが通った後には黒い煙といやな臭いがして、クラクションが頭に響いた。ママはアレックスの小さな耳を手で押さえて、優しく頭をなでた。
「犬は、人間よりも耳が聞こえるのよ」
それでもアレックスは全然泣き止まなかったけれど、大きな目玉がずっとママを見ていて、ママも家に帰るまでずっとアレックスを撫でていた。だから帰りにアレックスを見せに行ったお祖母ちゃんの家でも、ママはアレックスを撫でながら、お祖母ちゃんを玄関から呼んだ。
「言ったやろ、ママは犬が大好きなんやで」
お祖母ちゃんはアレックスを見て、チビ助やって言った。でもママは、すごく嬉しそうに、ずっとアレックスを撫でていて、家に帰ると拾ってきた大きなカゴにアレックスを寝かせて、子守歌を歌っていた。アレックスはママの手をペロペロと舐めながら、ゆっくりと目を閉じて、動かなくなって、鼻からピーピーと音を立てて眠ってしまった。
アレックスは家に来た時、お手やおかわりはもちろん、トイレも出来なかった。だから、いつもオシッコやウンチをもらしていた。トイレをした後はご飯を食べるとすぐに寝ちゃう・・・私が見る時はいつでもお昼寝をしていた。
「まだ赤ちゃんだから、仕方ないのよ」
ママはそう言って、アレックスに子守唄を歌って、その後はトイレの掃除をしていた。私も妹もちょっと大きくなって、ママは自由な時間が出来たはずなのに、アレックスの世話ばかりをしていてすごく楽しそうだった。
「早くおトイレが出来るようになろうね」
アレックスはトイレと決められた場所ではめったにしなかったけれど、その近くでトイレをしただけでママは褒めた。トイレの周りにたくさん新聞紙を敷いて、ちょっとずつアレックスはその新聞紙でオシッコをするようになった。そうしたら、ママはちょっとずつ新聞紙を小さくする・・・アレックスはトイレをすると尻尾を振って、ママのところに走っていった。
「お利口ね、アレちゃんは本当にお利口さん!!」
ママが褒めるから、アレックスはますます喜んで、ママの顔を必死に舐めた。二週間もすると、アレックスがトイレの場所を覚えて、ママは大喜びだった。妹も私も、アレックスがママの顔を舐め終わったら、いっぱい褒めてあげなくちゃいけなかった。ママが、アレックスが喜ぶからって言うので、家族中がみんなアレックスを褒めた。
アレックスは電池が入ったお人形みたいで、いつもママの足の周りをウロウロしてて、ママはいつもアレックスに話しかけてる。
「はいはいアレちゃん、ちょっと待っててね・・・お母さんすぐにご用事が終るからね」
ママと遊びたくなったら、アレックスはオモチャ箱からホネの形のオモチャを持って来て、ママの足元に置く。ママは皿を洗い終わったり、洗濯物を干し終わったら、エプロンで手を拭いた後にオモチャを投げた。アレックスは走って取りに行って、またママの近くに持ってくる。次第にママが投げるのが待ちきれなくなったら、アレックスはママが持っているのと反対側のオモチャに飛びついた。
「アレックスの一本釣り!!」
オモチャごと食いついたアレックスを持ち上げるようにして、ママとアレックスは遊んでいた。アレックスは必死にママにしがみついて、尻尾がプロペラになって飛んでいきそうなくらい、激しく振っていた。
私達が学校に行っている間、ママはアレックスと毎日二人で留守番をしていた。ママはアレックスを赤ちゃんみたいに抱っこして、庭に出て空や、車や、花を見せていた。
「アレちゃん見て、お空に飛行機が飛んでるね、見える?道路を走っているのは車よ、早いでしょ?お花がキレイね、いい匂いでしょ?」
まるで生まれたばかりの赤ちゃんみたいに、アレックスはママに抱っこされながら、空や車を見ていた。ママの言葉の通りに目が動いて、鼻が動いて匂いをかいでいた。家の前を通る人は、みんなママが人間の赤ちゃんを抱っこしていると思っていたみたい。
夏になる頃には、アレックスはすっかり自分がママの本当の子供だと思っていた。ママもいつもアレックスのそばにいて、耳の毛にリボンをしたり、尻尾にブラシをかけたりしていた。アレックスは喉を鳴らしてグーグー鳴いて、ママの膝に頭を乗せる。毎日仲良くしていて、妹はやきもちを焼いた。
でも夏が来て暑くなる前から、ママは時々お腹が痛くなるようになった。細い体を折り曲げて、時々じっと座り込んでしまう。その度にアレックスがママの顔を覗き込んで、一生懸命に顔を舐めた。最初はちょっと休んだらすぐに起き上がっていたのに、お腹が痛くなる時間はちょっとずつ長くなって、痛くなる回数も増えた。二日に一回だったのが毎日になり、一日一回が二度になった。アレックスはママの周りをグルグル回りながら、ママに向かって鳴いていた。
私もママの背中をさすったり、泣いたりしたけれど、ママは苦しそうな顔を上げて
「大丈夫」
と言うだけで、またすぐに痛そうに座り込んだり、ひどい時はずっと寝ていた。
ママは色んなことをいっぱいがまんしててストレスが溜まったんだって、だからお腹の中にある胆のうに石がたままってしまったって、何日かしてお祖母ちゃんが言った。だからママは、入院して手術して、お医者さんに石を取ってもらわないといけないんだって。
ママが入院したのは、夏休みに入ってすぐだった。アレックスは寝たきりになったママのすぐそばで一緒に寝ていたけれど、ママが大きなバックに着替えや歯ブラシを入れて出て行くのを、不思議な顔をして玄関から見ていた。
その日、ママは帰って来なかったのに、真っ暗になってもアレックスは玄関の靴箱の下に入り込んで、ママの帰りを待っているみたいだった。時々悲しそうな声で甘えたい時の鳴き方をしたけれど、私にも妹にも、もちろんパパにも甘えたり舐めたりしてこなかった。ママは手術して、すっかり元気になるまで帰って来なかったけれど、アレックスは毎日玄関で寝ていて、夜になっても誰のそばにも来なかった。
病院にいるママのお見舞いに行くと、ママはいつもアレックスのことを聞いた。
「アレちゃんは何をしてる?」
「毎日玄関で寝てるよ、靴箱の下にいる」
「あそこは涼しいから・・・」
「また体重が重たくなったよ」
力なく笑うママは、ベッドから起き上がることもなく、手術の直ぐ後は全然喋らなくなった。そんなママを見てると、私は泣きたくなる・・・ママ、お腹を切るくらいに痛かったのに、どうして今も痛いんだろう。
涙が出そうになった。ママが痛そうに顔をしかめて、私と妹を見た。妹は半分泣きそうな顔をしてママのそばに座っていたけれど、私からは背中しか見えなかった。でも今にも泣きそうな声でママに返事をして、いつもはたくさんおしゃべりしてるのに、病院では静かだった。私も何にも言えなくて、痛そうにしているママを見ている内に、目の奥がジンジンしてきて涙が出てきそうだった。
「ママ、痛いの?」
妹が聞くとママは笑おうとしたけれど、お腹が痛くて変な顔になった。
「もうすぐ治るから、大丈夫」
ママは毎日ヒマで、テレビもお金がかかるから寝るしか出来ない、テレビは二時間ドラマのサスペンスを観るだけ、って言って退屈そうにしていた。ママは病院に子犬の育て方を書いた本を持って行って、しつけやお手入れ方法を勉強していた。
ママは十日間ほど入院したけれど、まだ時々傷が痛むと言いながら退院した。真夏の暑い日で、太陽がカンカンに照っていた。妹とパパと一緒に病院に迎えに行って、ママの大きなバックを持って帰って来た。ママはまだ少ししんどそうだったけれど、私も妹もママが帰って来ることが嬉しくて、タクシーの中でもずっとママの手を握っていた。
アレックスはママが帰って来ないことが分かると、もう玄関では待たなくなっていた。玄関の靴箱の下にもぐり込んで毎日寝ていた。もうクンクン泣きもしなければ、ママを探して家を歩き回りもしなくなっていた。ママ犬や兄弟犬と別れたことを忘れたように、ママのことを忘れたのかもしれない。だって家に来た時も、最初はママ犬を探して鳴いていたけれど、三日もしたら鳴かなくなったから。
タクシーが家に着くとパパが門を開けて、妹と私がママの手をつないで扉を開けた。ママの体が心配だったから、玄関の扉は私が開けた。すると薄暗かった玄関いっぱいに太陽の光が差し込んで、明るくなった。廊下にも玄関にもアレックスの姿はない。
「アレちゃんは?」
玄関を見渡すようにしてママが言うと、靴箱の下からガサガサと音がした。靴がぶつかる音や、爪がタイルを引っかく音がして、まぶしそうに目を細めながらアレックスが顔だけを出した。小さな体はすっぽりと靴箱の下に入っていて、顔だけが生首みたいに飛び出していた。
最初はまぶしそうに目を細めていたアレックスは目が開くと、不思議そうな顔をしてママをジッと見つめた。確かめるようにジッと見て、声も出さない。ワンと鳴いたらママが消えて、夢が覚めると思ったのかもしれない。
「アレちゃん?」
ママが呼ぶと、弾丸みたいになったアレックスがママの足元に突進してきた。尻尾がち切れそうなほど左右に振られて、まるで円を描いているようになっている。小さなピンクの舌を覗かせながら、一生懸命に甘えた声で鳴いて、ママに飛びつこうと前足を上げた。
「アレ!!お母さんはまだ病気だから」
誰もパパの言うことなんて聞かなかった。ママは体をかがめるとアレックスはママの顔に飛びついて、ママの顔中を舐めだした。このまま舐め続けたら、ママが溶けちゃうんじゃないかと心配になったくらい。アレックスは真剣で、ママは涙を流してよだれと一緒になって顔がグチャグチャになった。アレックスは、ママ犬を忘れても、ママのことは覚えていた。
アレックスの問題に気付いたのは、生後半年の検診が終わった時だった。すっかり散歩が好きな普通の犬になったアレックスは、ママと散歩に行くんだと、大喜びで病院まで歩いて行った。
動物病院のお医者さんは、ママが結婚する前に犬を飼っていた時から診てもらっていた先生で、めがねをかけた顔が大きなお腹がある体に乗っていた。初めての検診も、予防注射もこの先生だった。
不思議なことに、アレックスは動物病院がきらいじゃなかった。初めての注射もフニャって変な声を出しただけで、痛がりもしなかった。きっと動物病院の助手の先生が優しい女の先生だから、だからきっと尻尾を振ったんだ。アレックスは女の人が好きだった。子供はあんまり好きじゃなかったけれど・・・。
いつものように、いやがりもせずにアレックスは診療台に乗って、健康診断を受けた。体重計になっている診療台が、六.五キロになっているのは、間違いではない。
ママが読んでいたシーズーの育て方の本には、大人になっても体重は七キロくらいって書いてあった。でも、アレックスは生後半年の赤ちゃんなのに、なんで大人と同じくらいの体重があるんだろう。犬のほうが早く大人になるって聞いたけれど、それでもあまりにも大きいかもしれない。
「太りすぎやな」
先生は何でもないと言ったけれど、アレックスは太りすぎと言うよりも、骨格が大きいから、赤ちゃんでも大人と同じ大きさになっちゃったんだって。人間で言う、スポーツ選手みたいなものだって言ったけれど、だったら相撲さんみたいな体だってことかな・・・。
そう言えば、アレックスは夏休みになる前、初めて動物美容院に行った。ママの友達がいつも犬を連れて行くところで、カットしてる様子が透明のガラス越しに見れた。
「生後半年のシーズーが来てるでしょう?」
ママの友達は様子を見に行ってくれたんだって。生後半年って聞いて、お店にいた人たちはみんな見たがったって。アレックスはお人形みたいに可愛かったから、それも仕方ない。
でも、誰もアレックスが本当に生後半年なんて信じなかった、って言ってた。
「この子は大きくなるわよ・・・」
ママの友達は、アレックスの足の裏の肉球を見て言ったけれど、アレックスがお相撲さんみたいだってことなのかな・・・。
動物病院の先生の一言で、アレックスはダイエットをすることになった。決してデブデブに太っているわけではないけれど、シーズー犬にしては体が大きいから、体重が増えないようにしたほうが良いって。今まではお腹がプックリとふくれるまでご飯を食べていたのに、ママはアレックスの一日のご飯を紙コップ一杯として、料理用の計りで計って一日二回に分けて食べさせることにした。子犬用のドックフードがダイエット用のドッグフードになった。太りすぎだと心臓の病気になることもあるし、長生きしない犬が多いんだって。だからママは、アレックスにダイエットをさせた。
最初の頃、ご飯が足りなくなったからアレックスは怒った。ご飯を食べ終わると器の前で大きな声で鳴いた。力一杯にワンッて鳴きながら、お尻を高く上げて、頭を下げて床スレスレに下げた。尻尾を高く振り上げて、ねだるみたいに上目遣いでご飯をねだる。
「アレちゃん、これだけしかないの」
ママはアレックスが鳴いても怒っても、絶対にご飯をあげなかった。飼い主の中には、可愛そうだって言って犬の体に悪い人間の食べ物をあげる人もいるけれど、ママはアレックスの健康のためだからって言って、絶対に人間のご飯は食べさせなかった。
代わりに、アレックスの体が丈夫になるようにって、猫用の出汁雑魚をご飯に入れていた。お味噌汁や煮物の出汁をとる魚だって聞いたけれど、全然いい匂いがしない。
なのに、アレックスは凄く美味しそうに食べる。偉そうな顔をして、私と妹に見せびらかすみたいに食べる。
「アレちゃんのご飯が一番美味しいのよ、お姉ちゃん達のは、全然美味しくないの、アレちゃんだけご馳走なのよ」
ママはそう言ってアレックスに言い聞かせていたから、アレックスはますます偉そうな顔をしてご飯を食べるようになった。
雑魚のほかには、アレックスのご飯にはキャベツや大根が入っていた。特にアレックスは大根が好きで、ママは夏でも大根を買っていた。アスパラガスと大根と雑魚、変な匂いのドックフードがちょっとだけ入って、冷たい牛乳が少しだけかかっていてグチャグチャのご飯・・・全然美味しそうじゃないのに、アレックスはすごい勢いで食べていた。どうして美味しいんだろう・・・。
私も妹も、匂いをかいだだけでウエッってなって、絶対に食べたいなんて思わない。だって、変な匂いもして美味しくなさそうだもん。アレックスは美味しそうに毎日食べていた。
食べていたけれども・・・毎日同じ物を食べているから飽きたのか、次第に食べなくなっていった。ママは時々、本当に時々だけれどお肉を食べさせたりしていた。それでも、アレックスはご飯を食べなくなった。
代わりにお肉や犬のお菓子を食べたがって、またお尻と尻尾を太赤く突き出して、頭を下げて上目遣いでのおねだりポーズで、お肉やお菓子をねだった。時々、お肉やお菓子を入れるまでご飯を食べない時もあった。
それでもママは、絶対にアレックスにお肉もお菓子もあげなかった。
「これだけしかないの!!」
そう言って、アレックスの体にいいものしかお皿に入れなかったから、好ききらいをしたアレックスが一日ご飯を食べない日もあった。
それでもママはお皿にお肉もお菓子も入れなかったから、お腹がすいてがまんできなくなったアレックスは、我慢してダイエットのご飯を食べるようになった。
お腹がすいたアレックスはがまんが出来なくなったのか、家具をかじるようになった。玄関にあるコート掛けが好きで、足を伸ばして床に寝そべりながら、コート掛けの足をかじっていた。
ある日、アレックスがまたコート掛けをかじっていた。今日もかじっているなぁってほっておいた。私が図書館から借りて来た本や自分のベットになっている果物カゴ、何でもかじるから、もう誰も気にしなくなっていた。
でも、アレックスがかじっているコート掛けが赤くなっているのに気が付いた。
「ママ!!ママ〜、アレックスの口から血が出てる!!」
私がママを呼びに走ると、妹も一緒になって、ママはアレックスのところまで飛んできた。台所から玄関は遠いのに、ママは三歩くらいで走ってきたかと思うほど速くて、妹が来た時にはもうママはアレックスの口を無理やりこじ開けていた。
「あぁ・・・歯が生え変わるのね」
人間の小さい子供が赤ちゃんの歯から大人の歯に変わるように、犬も赤ちゃんの歯から大人の歯に生え変わるんだって。アレックスの口には、赤ちゃんの歯の下から大人の歯がのぞいていて、歯茎に赤ちゃんの歯がぶら下がっていた。無理やり口をあけさせられて、口の中をのぞかれるのが気に入らなかったアレックスは頭を左右に振っていやがったけれど、ママは放さなかった。
「アレちゃんの初めて生え変わった歯だから、大事にしないとね」
ママは私や妹の初めて生え変わった歯も大事にしている。透明なケースに入れて、宝物みたいになおしてあるけれど、アレックスの歯も同じように透明のケースに入れて大事に引き出しの奥になおした。その間も、アレックスは歯が生えてくるのがかゆいから、コート掛けをずっとかじっていた。
「そんなにかみたいならかんで良いよ」
妹はアレックスが噛むためにって、ベッドの果物カゴに割ばしを入れた。でもおはしだと細くて痒さが止まらないのか、アレックスは割ばしを噛まなかった。
「アレちゃんも、大人になるのね」
ママはアレックスを撫でてやると、アレックスは家具を噛むのをやめて、ママのあごと首を舐めた。
大人の歯になったアレックスはますます歯が丈夫になって、家具をかじった。ご飯はやっぱり足りないみたいで、とうとうお皿もかじってしまった。アレックスのご飯を入れるお皿は水色のプラスチックのお皿だったけれど、アレックスがかじるからバリバリに砕けて割れてしまった。
「ママ〜、アレックスがお皿を食べちゃってる!!」
「アレちゃん!!お皿は食べられないのよ」
アレックスはお皿を三度もかじって割ってしまい、ママはとうとうアルミ製の銀色の固いお皿を買ってきた。それからアレックスは、お皿をかじらなくなった。
夏が終って、葉っぱが赤や黄色に色づいてきた。夜は虫の声が聞こえてきて、玄関の靴箱の下で寝ていたアレックスが、ちょっとずつリビングの方へと体を動かして、次第にママの膝の上で寝るようになった。
散歩に行くと、地面は落ち葉がカーペットの様に重なって積もっていて、アレックスの肉球が落ち葉を踏む音と、私のスニーカーが落ち葉を踏む音が合わさって、合唱をしているみたいだった。だんだん風が冷たくなってきて、私の吐く息が白くなると、アレックスの吐く息も白くなった。小さな鼻をヒクヒクさせてアレックスがくしゃみをすると、くしゃみが大きすぎて、その勢いで体が前にこけてしまう。いつも自分の大きなくしゃみにおどろいて、目玉をお皿みたいにしていた。
その頃には、ママはリビングにこたつを出した。アレックスがいつも寝ているところにこたつを出したら、アレックスが寝られなくなるって心配していたけれど、アレックスはこたつが大好きだった。ホットカーペットの上で猫みたいに丸くなっていたけれど、こたつを出すとすぐにもぐって行った。こたつの布団には、アレックスが突っ込んでいった後に穴が開いていて、中を覗くと緑色に光るアレックスの目玉が見えた。
「アレちゃんはどこかな?イナイイナイバァ〜」
ママはいつもアレックスと遊んでいて、よろこんだアレックスがこたつから飛び出して、ママの顔を舐めようと飛びつく。二人はずっとこたつで昼寝をしていて、毎日一緒にこたつに入っていた。
私と妹はアレックスがこたつに入った穴を見つけると、その穴をふさいで、足と手を使ってこたつの布団を押さえつけて、アレックスが出られないようにした。アレックスは真っ暗になると怖がって、慌てて出ようとするけれど、どこの布団も私と妹が抑えていてアレックスは出られない。ママを呼ぼうとクンクンと甘えた声を出す。そうするとすぐに出さないと、ママが飛んできて私達を怒る。
「お姉ちゃん達、仲良くしなさい!!弟をいじめちゃダメでしょ!!」
こたつから転がるようにして出たアレックスはママの足の後ろに隠れて、自慢そうな顔をして私達を見る。ママに告げ口をさせたら、アレックスが一番だったから、妹と二人でお腹にデコピンしてやった。
クリスマスが近くなると、アレックスは出窓に飾ったクリスマスツリーを変な顔をして見ていた。
「キレイやろ?電機の色が変わるんだよ」
ツリーに飾られたライトの色を変えるスイッチを押すと、ライトは赤から緑、黄色に変わった。なのにアレックスは驚きもせず、相変わらず変な顔をしてツリーを見ていた。
ママは毎年、クリスマスの前から来年のためのカレンダーを作る。小さな布を沢山縫い合わせたカレンダーで、パッチワークって言うらしい。それには家族の誕生日がししゅうで囲まれていた。来年のカレンダーには、アレックスの誕生日も赤い糸のししゅうで囲まれていた。
「ねぇママ」
ママはクリスマスの飾りを付けながら返事をした。
「何?」
「アレックスにも、サンタさん来てくれるのかな?」
「どうして?」
「アレックス犬やし、今年生まれたばっかりなのに、サンタさん知ってるかな?」
妹と私だけプレゼントを貰って、アレックスに何もなかったらかわいそうだから、私達二人はずっと気になっていた。
「来るわよ、アレちゃんはお利口さんだもん」
でもアレックスは夏に家具をかじったし、ダイエットしなくちゃいけないくらい大きいし、今は体重が八キロにもなってしまった。
「それに、アレちゃんに意地悪ばっかりするから、お姉ちゃん達には来ないかもね」
「アレックスは犬やから、意地悪にはならへん」
「アレちゃんは犬じゃないの、ママの子供なの!!」
ママはそう言ったけれど、アレックスはやっぱり犬だから、クリスマスプレゼントがないかもしれない・・・。
十二月二十四日は家族でママの作ったミートローフを食べて、クリスマスケーキを食べて、クリスマスの歌を歌った。アレックスもママに少しだけ鶏肉を貰って食べた。本当はクリスマスのとんがり帽子をかぶせたかったのに、帽子が大きすぎて、アレックスの顔が全部入っちゃったのでやめた。クラッカーを鳴らすとパニックになって走り出して、ママが抱っこすると肩までよじ登った。面白いので、アレックスに向けて妹とクラッカーを鳴らすと、ママに怒られた。
でもやっぱり心配で、アレックスのプレゼントのことを考えながら寝たけれど、朝起きるとご飯を食べるテーブルの上に、ホネの形をした犬のお菓子があった。
「アレックスにもサンタさん来たんだ!!」
赤いリボンが付けられた袋からお菓子を出すと、まだ眠い顔をしたアレックスがヨチヨチと歩いてきた。お菓子を目の前に出すと、うれしそうに駆け寄ってきて噛みつくから、私の手も噛まれそうだった。サンタさんは、アレックスのことも忘れなかったんだ。
クリスマスが終ると冬休みで、ママは家の大掃除をしながらお正月の準備をしていた。アレックスは窓拭きや押入れの整理をするママのそばにいて、時々ほこりのせいでくしゃみをしていた。
「アレちゃんはママのお手伝いをしてくれているのよね」
とママが言い、アレックスは尻尾を振っていた。
大晦日になってやっと掃除が終ったから、テレビでドラえもんを観ながら年越しソバを食べた。大きな海老が入っているおソバで、食べると長生きするってママが教えてくれた。
「アレちゃんも、今日はごちそうね」
アレックスのご飯には、大好物の大根がたくさん入っていた。私達はその残りで大根おろしを作って、おソバに入れたから、アレックスのお残しを食べていることになるのかな、って言ったらママもパパも笑っていた。
「じゃぁアレちゃんに、お大根ちょうだいね、って言わないとね」
ママが言ってアレックスのほうを見たら、ご飯を食べてカエルみたいにプックリと膨らんだお腹を天井に向けて、いびきをかいて寝ていた。犬がいびきをかくなんて知らなかったけれど、アレックスは手足を動かしながらクンクン鳴いて、寝言まで言っていたから、アレックスも夢を見ていたのかな。
朝が来てお正月になったから、近所の神社にアレックスも連れて、初もうでに行った。朝は遅くまで寝ていたけれど、お早うの代わりにおめでとうって言って、顔を洗ってから家を出た。
最初はパパがアレックスの散歩用のリードを持っていたけれど、アレックスは何度も立ち止まってママのほうを振り向く、ママと妹と私は三人でユックリ歩いていたから、がまんできなくなったアレックスがワンって鳴く。とうとうパパはリードを私に渡して、先に一人で歩いて行っちゃった。
「アレちゃん、パパとお散歩に行かないとダメでしょう?」
ママに抱っこをせがむアレックスに、ママは怖い顔をして言ったけれど、本気じゃないのは私も妹も、アレックスも知っていた。神社は人がたくさんいたから、ママはアレックスを抱っこしてお参りするところまで歩いて行った。ママに抱っこされたアレックスは屋台からトウモロコシを焼くいい匂いをかいで体を乗り出して、ママに怒られた。
ママがアレックスを抱っこしている間に妹とパパと三人でおまいりして、私がアレックスを抱っこしている間にママがお参りに行った。ママがさいせん箱の前にたくさん並んだ人の中に入って見えなくなると、アレックスはママを呼ぶために甘えた声を出して鳴いた。すると、他にも犬を連れている人がいて、声を聴いた犬が寄ってくる。
「まだ赤ちゃんなのね」
「ママさんが大好きなんでしょう」
アレックスは誰に向かっても尻尾を振るから、ママはたくさんの人と立ち止まって話しをした。小さな白いマルチーズ、茶色で大きなゴールデンレトリバー、茶色で耳が立っている柴犬・・・たくさんの犬が神社に来ていた。中には着物を着ている犬がいて、すごく可愛かった。周りにいる人も、みんな着物を着た犬を褒めていて、可愛いって言っていたので、後からママは
「負けたわ・・・家のアレちゃんのほうがずっと着物姿が可愛いのに、着物があるなんて知らなかったから!!」
って何度も言っていた。来年はアレックスにも家紋入りの着物を着せて、それで神社に行くんだって。
「そしたらアレちゃんが神社で一番可愛い」
だから来年のお正月までに、ママはアレックスに着物を縫うって目標を立てた。
一九九五年一月一七日が来た。風邪を引いていた私と妹は三学期の最初から長く休んでいて、この日久しぶりに登校するはずだった。
夢の中で私は大きな橋を渡っていて、映画のインディ・ジョーンズみたいに揺られていた。怖くて橋にかかっている綱にしがみつこうとするけれど、なぜか綱がつかめない。橋がますます激しく揺れて、頭の中がグチャグチャに振られて、体が谷底の下の下へ落ちていくような、怖い感覚だけが残っていた。
「カナ、カナ」
夢の中でママの声がして、びっくりして目が覚めた。ママが心配そうにのぞき込んでいた。
「地震があったんよカナ、分かる?」
心臓をドキドキさせながら起き上がると、ママの足元にはテレビが落ちていた。もしママの足がテレビの下にあったら、ママは足のホネを折っていたかもしれない。タンスが傾いていたけれど、少し出張った窓枠の柱に引っかかって止まっていた。この出っ張りにはママはいつも文句を言っていたけれど、この柱がなかったら妹はタンスの下敷きだった。パパが妹を布団から引っ張り出していて、妹はびっくりした顔をして、タンスを見ていた。
私がママや妹がケガをしていたかもしれない、と考えられるようになったのはもっとずっと後で、その時は何が起こっているのかも分からず、ボーとしていた。布団から出て、お祖母ちゃんの手作りちゃんちゃんこを着た。パパが部屋の電気をつけようとしたけれど、電気はつかなかった。障子を開けると、東のほうの空が薄っすらと明るくなってきていたけれど、まだまだ空は暗くて一つ二つの星が輝いていた。西には真っ白くなった月が沈みかけている。前の晩は、血のように真っ赤になっていて、怖くて布団を頭までかぶって寝たけれど、今は白く色が変わっていた。
パパは懐中電灯を取ってきて部屋の中を照らした。テレビが落ちているのとタンスが傾いている以外は、部屋の中は何ともなっていなかった。地震があったと言っても、大きくはなかったんだ。ちょっと安心した。
懐中電灯を持ったパパを先頭に、ママの後ろに妹が、最後を私が歩いて、二階の他の部屋を見て回った。電話台から電話が落ちていたから、パパは屈んで電話を拾った。
「足元、何落ちてるか分からんから、気ぃ付けや」
パパのスーツとママの鏡台、私と妹のタンスがある部屋は奥のほうで、ママの鏡台から引き出しが全部飛び出していた。机の上にきれいに並べてあったビンが倒れ、ママが結婚する前から飾っていたお人形のケースが落ちて粉々に割れていた。指輪やネックレスが入っているアクセサリーボックスも落ちて、引き出しが床に散らばって指輪やネックレスがガラスの破片に混じって床の上で懐中電灯に照らされてキラキラと光った。それが床に落ちた人形の頬に映って怖いくらい・・・。妹はママの手をギュッと握ったのが分かった。
「危ないから、奥に行っちゃダメよ」
ママが私に話しかけたから、黙ってうなずいた。隣にある私と妹の勉強部屋はグチャグチャだった。本棚から教科書も辞書も本も、全部が落ちて、机の上にきれいに並べてあったオルゴールが床に叩きつけられて粉々になっていた。ペン立てが倒れて机の上に散らばった紙や本の間にもぐっていた。ランドセルがどこにあるかもわからない、プリントの雨が降ったみたいになっている。
足元のプリントやノートを踏みつけて、パパが部屋に入って行った。ママも妹も私も、パパが持っている懐中電灯しか明かりがなかったから、ちょっとずつパパのほうへ寄って行った。パパは無理やり窓を開けて、重たい雨戸を開けた。薄暗い夜から朝の白い空気に変わっていて、街が見えた。
でもそれは、学校の道徳の授業で観た戦争時代のビデオに似ていた。隣の家がくなっていた。瓦がいっぱい並んだ屋根の大きな家だったのに、二階建ての家よりも小さくなって、下のほうに崩れかけた屋根が見えた。まるで二階が一階に引っ越したみたいで、一階が消えてなくなっていた。
道路の向こうのほうにいつも行く文房具屋さんが見えるはずだったけれど、もう文房具屋さんは見えなかった。代わりに崩れ落ちたビルが見えた。灰色のコンクリートの建物なのに、中が茶色いのは不思議に思えたけれど、文房具屋さんのシャッターも何も見えなかった。
「カッコイイ・・・」
何だかゴジラが攻めてきた映画みたいいだな・・・本当は怖くて心臓が痛かったけれど、私はママにそう言った。ママは聞こえなかったフリをして私の肩をグッと抱き寄せて、息を弾ませていた。本当に、大きな地震があったんだ。
パパを先頭にして階段を下りると、玄関のコート掛けが倒れて、コートやジャンパー、マフラーが玄関に散らばっていた。パパはその中からスリッパを取り出して、妹と私にはかせた。
「足にケガするかもしれんから、脱いだらあかんで?」
フワフワの毛がいっぱい付いた鳥のスリッパで、お人形みたいでアレックスが大好きなスリッパだった。これをはいて歩くと、いつもアレックスがスリッパに噛み付くから、私も妹もめったにはかなかったんだ。
トイレの上の土壁が崩れて、廊下の奥のほうでは壁がむき出しになっていて、パパは舌打ちをしてよく分からないことを小声で言って怒っていた。それに和室の土壁は全部崩れ落ちて、壁から柱が丸見えになっていた。和室の雨戸がずれていて、窓枠が斜めになっているようにも見えた。
「アレックスは?」
和室のロッキングチェアの下で丸くなるのが好きだったのに、アレックスはいなかった。
「リビングは?温かいからこたつで寝てるんじゃない?」
寒くなってからは大好きなこたつの中で寝ているから、みんなでリビングに行った。
食器棚が壁から離れていて、扉がブラブラと開いているから食器が全部落ちて割れていた。ママが大切にしていた外国のティーカップがそこら中に飛び散って、赤や黄色や茶色の破片が、絵の具をまいたみたいに見えた。本棚から本が落ちて、電話台がひっくり返って、こたつの上にはたくさんの本やビデオが積もっていて山みたいに見えた。
「アレックス!!アレックス!!」
ママが呼んでも返事がなくて、ママは慌てて本の山をどかし始めた。本を一冊ずつどけて、こたつを見つけようと屈んだ。
「お姉ちゃん達も早く手伝って!!アレちゃんが下にいるかもしれない!!」
みんなでアレックスを呼びながら本をどけた。最初は山みたいだったけれど、ちょっとずつこたつの形が出てきた。クッションが見つかって、こたつの布団が見えて、脱ぎっぱなしだった私のジーンズが見つかった。こたつが出てきて、ママは慌てて布団をめくったけれど、アレックスはいなかった。
「呼んでる時、声がしなかった?アレちゃんが下敷きになってるの」
耳にはアレックスの声が聞こえたけれど、それが本当に聞こえた声か、それとも聞こえたように気がしただけなのか分からなかった。
「あそこから聞こえた気がする」
ママは慌てて反対側の本やビデオをどかし始めたけれど、アレックスは見つからなかった。
「ママ、お姉ちゃんのジーンズがくさい」
わきに置いてあった私のジーンズの匂いをかぎながら、妹が言った。ママは妹からジーンズを受け取ると、顔を近づけるようにして匂いをかいだ。
「・・・アレちゃんのおしっこだわ、やっぱりアレちゃんはここで寝てたのよ」
一人で寝ている時に地震があって、怖くておもらしをしたんだ。アレックスはやっぱりどこかにいる。ママはアレックスを呼びながら、部屋のあちこちの物をひっくり返した。パパが窓を開けようとしたけれど、なかなか開かなかった。
「危ないから外へ出ろ」
隣の和室の窓を開けてパパが言った。この窓だけはちょっと雨戸がずれていて、最初から少しだけ開いていた。
「でもアレちゃんが・・・」
ママは外になんか出たくなさそうだったけれど、私と妹の手をついで外に出た。外は真っ暗で、街灯も消えていて何も見えなかったけれど、門を出て道路に出ると、隣の家もその隣の家も、みんな傾いているみたいに見えて、道路がひび割れて穴がたくさん開いていた。
「お母さんはアレちゃんを探しに戻るから、ここを動いたらダメよ?」
返事も聞かずにママはパパと一緒に家に戻っていった。アレックスがまだ家の中に閉じ込められている・・・ケガをして動けないのか、何かの下敷きになっているのか分からなかった。妹は寒そうに体を縮めて、ママの後を追うようにして家に近づいた。
「カナ!!」
突然私を呼ぶ声がして振り向くと、真っ暗な中に誰かの影が動いた。でも声はママの妹の叔母ちゃんだった。
「叔母ちゃん!!」
返事をすると自転車を乗り捨てる音がして、叔母ちゃんが私を抱き締めた。頭から順番に体、足、手を調べて、ケガがないかと聞いた。
「アレックスが中なの」
叔母ちゃんの声を聴いてママが家から出てきた。
「お姉ちゃん!!お母さんが、お母さんが・・・崩れた家の一階で寝てて、呼んでも返事せぇへんねん・・・!!」
お祖母ちゃんと叔母ちゃんや家族が暮らしている家が崩れた。一階がグチャグチャになって、叔母ちゃんも二階の崩れた部屋から抜け出してきたって。
お祖母ちゃんはいつも一階の奥の部屋で寝ていた。それから、一階の部屋で遊び疲れて寝てしまっていたいとこ達も、崩れた家の下敷きになっていた。
その後、いとこの一人は家から這い出してきたけれど、お祖母ちゃんともう一人のいとこは、何日も後になって見つかった。その時にはもう、息はしていなかった・・・。
お祖母ちゃんの真っ白な顔は紫色になっていて、顔がおせんべいみたいに広がっていた。アレックスが家に来るように電話をしてくれたお祖母ちゃんが、死んでしまった・・・。
地震があった日から、アレックスは家からいなくなってしまった。私のシーンズにおもらしをしてその後どうしていなくなったのか、全く分からなかった。
家の窓や扉は全て閉まっていたし、家中のものがひっくり返ってしまっていた中で、アレックスはどこに消えてしまったのだろう。
ママは家中の本や棚を元にもどし、割れた食器を片付けながらアレックスを探した。でもどこからも返事はなくて、家からアレックスの影も形も消えてしまった。
「どこかでケガをして動けないのかもしれないわ」
大騒ぎして心配のあまり顔が真っ青になったママは、ちゃんちゃんこの上にコートを着た私と妹がに、空が明るくなるのと一緒に外に捜しに行くように言った。
隣の家の庭にも近所の公園にもアレックスはいなかった。近所の家からはちょっとずつ人が出てきた。隣の男の子も、お姉さんもみんな無事だった。でも、誰もアレックスがどこに行ったかを知らず、逃げるところも見ていなかった。
もっと明るくなってから、アレックスがいつも歩いていた散歩の道を探しに行った。道路はあちこちが割れていて、大きな穴が開いている。その穴からは太い水道管やガスの管が丸見えになっていた。アレックスはその穴に落ちたのかもしれない・・・。
「アレックス?アレックス?」
穴に向かって叫んでみたけれど、返事はなかった。丸見えになったガス管は割れていて、道にはガスが漏れて、変な匂いがしている。ずっと匂いをかいでいると、頭が痛くなる・・・まだちょっと熱があった妹は、変な匂いをかいで頭がボーとしたようだった。それでも、アレックスを探すことを諦めず、アレックスが行ったこともない道にも探しに行ったみた。もしかしたら、アレックスは迷子になったのかもしれない・・・。
途中で小さなトイプードルを見た。アレックスと一緒で、きっと家から逃げ出して迷子になったんだろう。家に連れて行ってあげようとしたけれど、私と妹を見るとびっくりして逃げて行った。後からママが言っていたけれど、迷子になったペットの犬がたくさん連れ去られて、売られてたんだって。きっとあのトイプードルも、前に怖い人に会ったんだと思う。
ママは三日間アレックスを探したけれど、見つからず、それでもお祖母ちゃんのお葬式をするために家を出て行くことになった。近所の人にアレックスを見つけたら電話をして欲しい、帰ってきたら捕まえて欲しい、と言ってお願いしておいた。
「アレックスを返してね・・・お願いね、お母さん・・・」
ママは何度もお祖母ちゃんにお願いしていた。紫色だった顔を化粧して真っ白にもどしても、お祖母ちゃんは眠っているようには見えなかった。お祖母ちゃんにも見えなくて、知らない人形が寝ているみたいにしか見えなかった。けれどママは
「お祖母ちゃんが天国で、アレちゃんが来ないように見張ってくれているから、アレちゃんは絶対に帰ってくるわ」
パパはもうアレックスは帰って来ない、きっとケガをしていて死んでしまったんだって言ったけれど、ママは信じなかった。パパは地震の日からアレックスを探すことを止めて、安全な大阪に家族で引っ越そうって言い出した。でも、迷子になっていたアレックスが帰ってくるかもしれない・・・、ママはもちろん、私も妹もアレックスに帰って来て欲しかった。
「アレックスはきっと死んでしまったんや」
お祖母ちゃんの入った棺にしがみつくようにして泣いてお願いするママに、パパはちっとも優しくなかった。ママは声を出さないように、きつくくちびるをむすんで、心の中でお祖母ちゃんにお願いしていた。だから私も目を閉じて、生きている時のお祖母ちゃんを一生懸命に思い出しながらお願いした。
「ママにアレックスを返してあげてください」
大きな地震は終ったけれど、小さな地震がずっと続いているから西宮には帰らず、パパの言う通りに大阪に引っ越した。ママは本当はアレックスを探したかったけれど、私と妹のために一緒に引っ越しすることにした。
時々、西宮の家を片付けるために帰ったけれど、ママはその度にアレックスを探していた。家はいつ崩れてもおかしくなかったから、もうこの家には住めないんだってパパが言ったけれど、家がなくなったらアレックスは帰って来れなくなるんじゃないかな・・・。ママは近所の獣医さんやペット美容室、アレックスの散歩で知り合ったほかの犬の飼い主さんに、アレックスがいなくなったから探して欲しい、とずっとお願いに回ることにした。でも誰も、アレックスを見つけてはくれなかった。だからパパは、ママにもうアレックスを諦めろ、死んだ犬は帰って来ないと、何度も話そうとした。
「この目で見るまでは、アレちゃんが死んだなんて信じない・・・お母さんが私に、最後にくれたんがアレちゃんや!!」
でもママは絶対に諦めなかった。
大阪に引っ越してしばらく経つと、ママはアレックスの写真をコンビニでコピーして、『迷い犬』のポスターを作った。大阪の家の電話番号を書いて、アレックスの写真を真ん中に貼った。
『アレックスを見つけたら電話を下さい』
家の玄関の前で遊んでいる写真で、ママが電話番号とアレックスの毛の色、目の色、首輪の色とか、アレックスの目印になるものをポスターに書き込んだ。それを友達や学校の先生に頼んで、アレックスを探すポスターを町の色んなところに貼ってもらった。日曜日は自転車に乗って、家から遠くはなれたところにも貼りに行った。
「お母さん、アレックスを返してください、もう一度アレックスに逢わせて下さい」
ママはお祖母ちゃんの写真に向かって、朝と夜には必ずお願いをした。地震の日から、アレックスを見た人は誰もいなくて、本当に私のシーンズにおしっこをしたのがアレックスなのか、それも分からなくなりそうだった。ママは電話が鳴るたびに、アレックスを見つけた人が電話をしてきたのではないか、と走って行った。パパはアレックスの話もしなくなって、もう忘れてしまったかのように、毎日仕事に行っていた。
ある日ママが朝ごはんを食べながら不思議な夢の話をした。夢の中で私が家からいなくなって、ママは一人ぼっちになってしまった。
「カナ〜、カナ〜どこにいるの?」
ママは一生懸命に私を探したけれど、どんどん辺りが暗くなって、どこかも分からない真っ暗な街の中で、ママは一人で私を探した。
「ママのところに帰っておいで!!」
だんだん寒くなってきて、ママは大きな声を出して私を呼んだ。
「ママ、ママ!!何言ってるの、ここにいるじゃない」
お祖母ちゃんが、地震で死んだはずのお祖母ちゃんが現れた。
「ほら、ここにいるじゃない」
お祖母ちゃんの腕の中には、小さな毛糸玉みたいなものが抱かれていた。ママがのぞき込むと、それは・・・アレックスだった。慌てたママが目を覚ますと、私と妹が隣で寝ていた。窓の外からは太陽が昇ったばかりで、弱くて白い光で照らされていたんだって。
「だから、きっとアレちゃんは帰ってくるわ、お祖母ちゃんがきっと返してくれる」
でもママの話なんて信じられない。死んでしまったお祖母ちゃんがアレックスを連れて来てくれる訳がない・・・パパは何も言わなかった。だから、私も妹も何も言わなかった。
アレックスが帰ってきてくれたほうがいい、早く会いたい・・・だけれども、もうずっと見つからないアレックスが、そんな簡単に帰ってくるのかな。
その日の夕方、大阪の家の電話が鳴った。もう慣れっこになっていたから、誰も気にしなかった。西宮の家の近所に住んでいる人からだった。私よりも一つ年下の男の子がいる家のおばさんで、アレックスにも優しくしてくれた。時々、ママは西宮の人とも長い電話をしていたから、私は気にもせずにテレビを観ていた。
「カナ!!アレックスみたいな犬が、見つかったって!!」
電話をくれたおばさんの家の男の子が、犬の保護所でよく似た犬を見たって。ちょっと遠い所だから、おばさんが車で連れて行ってくれるって・・・。
ママは、家を飛び出すようにして駅に向かった。アレックスかどうかは分からない、だからママが行って確かめなくちゃいけない。ママが早く走るから追いかけるのが大変で、早くしなさいって何回も怒られた。でも心の中では、何度もお祖母ちゃんにお願いをしていた。
「アレックスを、ママに返してあげて」
西宮に着くまで、ママはあんまり話さなかった。駅には電話をくれた近所のおばさんが、車で迎えに来てくれていた。
西宮戎の神社の境内に、たくさんの猫や犬がいた。みんな地震で迷子になって、家が分からないから集められたんだって。
犬や猫の世話をしているお姉さんに、ママが声をかけた。
「家の犬に似た子がいるって聞いたんです」
「どんな子ですか?」
「茶色のシーズーで、ちょっと大きいんです」
お姉さんは小さい種類の犬ばっかり集められた場所に連れて行ってくれた。たくさんの犬が入ったゲージがあって、中からは悲しそうな声で鳴いた犬が、ジッと私たちを見ていた。あちこちから声がして、みんな悲しそうに、寂しそうに家族を呼んでいた。
「今さっき、お散歩から帰ってきたばっかりなんですよ」
お姉さんは明るく言ったけれど、犬達は全然明るくなかった。「早く帰して、家に帰りたい」ってみんながバラバラに大合唱をしているみたいで、犬たちの足下には、空っぽなのに汚れたお皿があった。散歩から帰ってきて、ご飯を食べていたのかな。
「どの子ですか?」
マルチーズやヨークシャーテリア、チワワ…たくさん犬がいたけれど、アレックスみたいな犬はいなかった。
だけれどママは、ずっと向こうの遠くを見ていた。ひとつだけ、中の犬が鳴いていないゲージがあった。毛だらけの背中を向けて丸まって寝て、お皿は茶色の塊みたいなご飯が詰まっていた。中の犬の毛は真っ黒によごれていて、毛はもつれて伸びていた。よごれていてきたない・・・アレックスはいつもママがブラシを掛けていて、毛がサラサラだった。でもあの犬は、きっと一度もブラシなんてしたことがないと思う。それに、すごくくさい。
ママはちょっとずつゲージに近付いたけれど、犬は顔をあげなかった。まるで、もう家に帰ることなんて、あきらめてしまって、生きていても意味がないから止めてしまったのかな。
「…アレックス?」
ママが呼ぶと、毛玉が動いて顔を上げた。でも犬じゃなくて、真っ黒な顔のタヌキだった。鼻がつぶれたみたいにペッタンコだったから、アライグマなのかもしれない。その目はどんよりしていて、アレックスのようにキラキラしていなかった。
「…アレックス?」
ママがもう一度呼んだ。尻尾がプロペラみたいに動いて、目がキラキラとかがやきだした。起き上がって前足を伸ばし、ゲージから出せって急にワンワン泣き出した。静かだったゲージがとたんにガタガタ騒ぎ出し、今にも壊れてくずれるかと思った。タヌキだったのに、その毛玉はアレックスに変身したのだ。
「アレックス、アレックス!お母さんよ、分かる?」
もちろんアレックスには分かっていた。だから、ママのところに行こうと暴れ出した。
「アレックス!アレックス!」
呼んでいる内に、ママの目から涙があふれてボタボタと落ちた。私も夢中でアレックスを呼んだけど、声が詰まって、アレックスの鳴き声そっくりになった。アレックスが暴れてもゲージは壊れなかったけれど、ガチャガチャガチャガチャと大きな音がした。
お姉さんがゲージのドアを開けてくれたのに、アレックスはそんなことも気が付かない。体を持ち上げられても暴れ続けて、とうとう地面に落ちた。でもすぐにママに向かって駆け出して、ママはアレックスを抱き上げた。アレックスはママの顔をなめながら、ママの体に登ろうと手足をバタバタさせて今にもママの手から落ちそうだった。ママの顔は涙とよだれでグチャグチャに汚れて、アレックスは体中を使ってママにしがみついて、頬っぺたも鼻も目も口も、首も・・・ママの全てをなめるようにして喜んでいた。
「アレックス、アレックス・・・!!」
ママは息を途切れさせながら必死にアレックスを呼んだ。私と妹は、アレックスの背中を撫でて、涙でアレックスの模様がぼやけて見えたけれど、その毛の感触はアレックスのものだった。ワンワン鳴く犬達の中で、アレックスは息を詰まらせてフガフガ言いながら、必死にママをなめて、気が付いたように私たちを時々見た。
「本当にアレックスよね?カナ見て、アレックスよね?」
「アレックスやよ」
涙で見えなかったけれど、ママにしがみついて、これほど必死に尻尾を振る犬はほかにいない・・・、ママのアレックスが帰ってきた、それは絶対に間違うはずがない、アレックスを間違うはずがない。
「お母さん・・・ありがとう・・・アレックスを返してくれて・・・ありがとう・・・」
小さな声で、ママがお祖母ちゃんに言うのが聞こえた。
「三日前に、保護していた人が連れてきてくれたんですよ」
お姉さんが言った。保護した人は地震の日にお腹をすかせて倒れているのを見つけて、子犬だったから家で飼おうと思って名前もつけて可愛がっていたのに、急に元の飼い主に返さなくちゃいけない、って思って連れてきてくれたんだって。本当は家で飼いたかったのに、アレックスがずっとママを探すから、飼い主を探すことにしてくれたんだって。
「ありがとうございます・・・本当に、ありがとうございます・・・」
拾ってくれた人が、どうして気持ちを変えたか分からないけれど、ママはお祖母ちゃんがアレックスを返してくれたんだって言ったから、私もそうなんだと思う。
「全然ご飯も食べなくて、お散歩にも行きたがらない子だったのに・・・ずっとママさんを待ってたんですね」
涙がちょっとだけにじんだ目で、お姉さんが言ったから、アレックスはママが迎えに来るのを、知っていたのかもしれない。その間もずっとアレックスはママの首や頬っぺた、あごをキャンディみたいになめていた。あんまり激しく体を動かしてなめるから、何度もママの腕から落ちそうになって、ママが何度も抱きなおした。
「アレックス・・・アライグマみたいできたないわ」
妹が言ったけれど、ママはアレックスを放さなかった。アレックスは仕返しに、妹の鼻を思いっきり舐めた。
「くさいっ!!」
もうずっとお風呂に入っていなかったから、アレックスの全身がくさかったけれど、アレックスはアレックスで、タヌキでもアライグマでもないのが分かる。本物のアレックスが帰ってきたんだ。
私達はそのままアレックスをリュックサックに入れて、顔だけをファスナーから出して、飛び出させながら電車に乗って大阪に帰った。
家ではパパがとっくに帰って来ていて、アレックスを探しに行く、と言うママのメモを握って待っていた。
「アレックス!!よう帰ってきたな・・・」
パパはママからリュックサックごと受け取って、アレックスになめられるままに顔を突き出して、器用にリュックサックからアレックスを出した。
家族がそろった。地震でいなくなったアレックスが帰って来た。ママはお祖母ちゃんの写真に手を合わせて、何度も何度もお礼を言って、また涙を流して頭を下げた。
「ありがとう・・・お母さん、本当にありがとう・・・」
ママと並んで私も妹もお祖母ちゃんに手を合わせて、一緒にお礼を言った。
大阪の家に来て、今までの様にアレックスのトイレやオモチャをたくさん置いてあげる場所がなかったし、柱が折れてしまった西宮の家に置いてきたから、もう危なくて取りに帰れなかった。しばらくアレックスは家中をウロウロして、慣れない大阪の家では落ち着かないようだった。ママは何度もアレックスを散歩に連れて出て、気分を落ち着かせようとしたけれど、狭いアパートの中で、アレックスは暮らしにくそうにしていた。
しばらくして、遅くに帰ってきたパパが大きな厚紙に貼った紙を持って帰って来た。新しい家の設計図で、ママが私と妹に見せてくれた。
「西宮に帰ろう、家を建て直して、またあそこで暮らそう・・・」
今度の家はアレックスが爪を引っかいてもいいように、壁も床も丈夫で、傷が目立たない色にしたって。
夏になる頃に、新しい家が建った。ママは家の南側にあるピアノの上にレースの布を敷いて、お祖母ちゃんの写真を飾った。そしてアレックスのオモチャ箱とご飯用のお皿を、すぐ近くに置くことにした。
そうしたら、ママとアレックスが仲良くしているのを、ずっとお祖母ちゃんが見ていられるから。